untitled (2026/5/3)

先日、木村伊兵衛写真賞の授賞式があった。平日の昼間にも関わらず、たくさんの友人が駆けつけてくれた。私は本当に人に恵まれている。授賞式の前日、深夜に展示の設営を終え、ヘロヘロでたどり着いた銀座のビジネスホテルでスピーチ文を書いた。今読み返すと、話がとっ散らかっていているけれど、記念にここに残しておく。

 みなさま、今日はお集まりいただきありがとうございます。この作品でこうした賞をいただくことができて、本当に良かったと思っています。『ー・・』は伏龍特攻隊の元隊員の方が綴った体験記をもとに制作した作品ですが、今の横須賀の写真であり、私の友人たちを写した写真でもあります。
 私は、百年後に写真を残すために制作をしています。いつの日か私の肉体が滅んでも、いつかどこかで未来の誰かが、私の写真集を見て、『こんな世界もあるんだ』と思ってくれることを願って写真を撮っています。 
 写真を始めて間もない頃、写真家の山崎博さんの展示へ行きました。ステイトメントで、山崎さんは写真について、『無責任でべらぼうに楽しい』、『何も写っていなくとも、そのことも含めて世の中に一つしかない写真』と綴っていました。私はこの考え方に強く共感し、以来、この言葉は指針になっています。 
 写真を続けているのは純粋に楽しくて、好きだからです。私がやっていることは、0から1を生み出すようなことではなく、すでにある景色を撮り、すでにある言葉を組み合わせ、1を1.5にするようなことです。その「カンマとすこし」の部分が、誰かの記憶に残ってくれたら嬉しいです。
この作品の制作中、相談に乗ってくれていた友人の古田さんが、「80年前の音が現在まで反響して聞こえ続けている可能性があるし、当時の光も粒子として”今”まで残っている可能性がある。その逆も然りで、私が集めた音や光が、80年前に届く可能性すらある。」と言ってくれました。私はこの言葉を頼りに制作をしました。これは、この作品に限らず、今後の私の人生にとっても大切な言葉になるのだと思います。

 きっとこの先も私の第一言語として写真はあるのだと思います。しかし、ここ最近は、写真をやっている場合なのかと思うような世界になってしまいました。 人間は、罪のない命や(それだけでも全く許されることではないのに)、先人たちが守り残してきたもの、残すつもりもなかったけれど残ってきたもの、さらには他の生物や植物の生態系までも一瞬にして奪う愚かな生き物になりました。そして、その一人として私も生まれてきてしまいました。
当時、伏龍特攻隊は、物資不足により、機雷に詰める弾薬が手元にないまま訓練をしていました。ですが、もしも彼らの手元に爆薬が到着していたならば、訓練の時点でもっと多くの人が亡くなっていただろうし、海の生き物もそれに巻き込まれて死んでいただろうと思います。
私は人間のひとりとして、できる限り、あらゆる破壊や虐殺に加担せずに生きていきたいです。
こうした発言ができる場があることをありがたく思います。 
ここにいるみなさんは私にとって欠けてほしくない、かけがえのない人たちです。
その人たちにもきっとかけがえのない人がいて、それが広がっていくと、いつかは、今まさに爆撃にあっている人や、80年前に命を落とした誰かにたどり着くのではないかと思います。
今ここで、目の前の友人を見つめることは、今ではないいつかの、ここではないどこかや、まだ見ぬ誰かを見つめることと同じだと思っています。 

 初めてフィルムカメラを手にした十代の頃から今まで、私がやっていることは変わっていません。放課後に友だちとビルの屋上に忍び込んだり、暇さえあれば海に行ったり、あてもなくドライブをしたり。今回の作品もそうした行為の延長線上で生まれた作品です。私や友人にとっての、このありきたりな時間が、これからも流れ続けることを願っています。
そして、この受賞を機に、名前の残らなかった人びとの存在や、今の横須賀の景色がより広まり、ちゃんと残っていくことを願います。一人では、世界は何も変わらないのではないかと絶望してしまう日々ですが、心から怒ったり、悲しんだり、今日のような日を純粋な気持ちで喜んだり、楽しんだりすることが、何より大切だと思っています。ですので、今日は楽しく過ごしましょう。」


もうひとつ、ブログで公開したいことがある。当日、編集者の酒井瑛作さんが贈ってくださった祝辞だ。
彼は、ここ数年の私の活動をそばで見てくれている伴走者で、写真を撮った本人よりも撮られた写真のことをよく知っている。祝辞を自ら載せるおめでたい人なんているだろうかと躊躇ったけれど、寺山修司と中平卓馬の関係を引用した話はとても面白かったので、酒井さんに掲載の許可をいただいた。

どこかから書かれた祝辞

 ところで、濵本さんは連絡をするたびに違う場所にいます。先日は九州にいるといっていたのに、今日は北海道にいるという。所在地がよくわからない。僕にとって濵本さんは、そんな人です。とにかく動き続けて、車を走らせることから制作がはじまるようなあり方です。『ー・・』もまた、移動のさなかから持ち帰ってきた作品でした。これまでの作品を振り返ると、「VANISHING POINT」(消失点)、「midday ghost」(白昼の幽霊)、そして「ー・・」(信号)と、いずれもあらわれてくるもの、もしくは、消えていくものを捉えようとしています。それは、速度を上げた車窓から見える風景のように思えるし、壊れたフィルムカメラが写し出す風景のようにも思えます。濵本さん自身はそれを「記憶」と呼んでいました。忘れていること、覚えていること、知ること。記憶とはそのような区別が明確ではなく、まさにあらわれては消えていくものです。濵本さんは、区別にこだわりがないかのように、前後左右、過去・現在・未来、どちらかはわからないけれどとにかく走り抜けていく。さて、濵本さんは一体どこにいるのでしょうか。まだわからない。

 すこし、歴史の話をします。「透明人間」と呼ばれた写真家の話です。寺山修司は「撮ることの犯罪性 中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』をめぐって」(1973年)で、詩的な情緒を退け、「事物の視線」を捉えようとした中平卓馬を「透明人間」と形容しました。また、1977年に中平が記憶を失ったあと、翌年の文章では「私を消す方法」とも。なぜそんなことを書いたのでしょうか。それは寺山が、ファインダーを介したあちら側とこちら側、つまり私と世界の関係を問うていたからです。撮るという行為を通じて、私を世界に投影しないことは本当に可能だろうか。仮にニュートラルな関係を実現したとして、その関係を突き詰めた先では、撮影者の不在、あるいは、世界の不在のどちらかが生まれてしまうのではないか。寺山は、この不在を透明人間と呼び、私や世界の消去の手つきこそが犯罪なのだと言ったのでした。寺山のいう「犯罪」が、現実のどの法令を違反した犯罪なのかはよくわかりません。わからないのですが、少なくとも寺山と中平は、追いかけ、追いかけられながら、犯罪なきひとつの世界を、表と裏で別々に共有していました。それは、「現実」と「幻想」です。しかし、二項対立を超えた区別なきひとつの世界は見つかっていません。透明人間が眺める透明な世界は、どこにあるのでしょうか。それは、いまだに空白として残されています。歴史の話はこれまでにします。

 『ー・・』で濵本さんは、戦争がもたらした記憶の断片を掬いとりました。対象はきわめて個別具体的な出来事で、どこか遠く離れた場所や時間についての話ではありません。トラウマの再演でも、わからなさという距離の表明でもありません。この作品で試みられたのは、少年たちが生きた戦時下の日々にあったはずの、潜在的な可能性を表象することでした。まなざしは現在に向けられながら、同時に、彼らが見た美しいもの、楽しかったこと……記憶のうちに沈んだ、どこにでもいる少年たちが想像した世界へ向けられているのです。これもまた、どこにもないものへ向かってシャッターを押す、透明人間の犯罪なのかもしれません。しかし、かつての少年たちの生を見出すには、生きる「私」という存在を通じて以外にはありえません。そして、このように私を差し出すことで、生きているのか死んでいるのか、いるのかいないのか、その区別がだんだんと曖昧になっていく。そのときある意味で、中平と寺山の関係から浮上した「透明人間」や「私を消す方法」とは別のかたちで、濵本さんはどこにもいなくなっているかのように思えるのです。

 はじめて濵本さんと会話をしたときに、ある問いを投げかけていたことをその後も覚えてくれていました。「写真にふさわしい場所はどこか」という問いです。いまならわかるのですが、濵本さんは「どこか」と答えるでしょう。まさに目の前にいながら、どこにもいない人として。僕にとって濵本さんは、そうやって写真を撮る人なのです。

 最後に、祝辞を述べます。いまここにいる濵本さん、あるいは、どこにもいない濵本さん。この度は、木村伊兵衛写真賞のご受賞おめでとうございます。

2026.5.3