untitled (2025/12/24)
大阪へ来たついでに、こちらの高齢者施設で暮らしている大叔母に会いに行った。(20代のクリスマスイブの予定にしてはなかなか渋いですよね。)
83歳の大叔母は数年前に認知症を発症し、会うたびにじわりじわりと変容している。
とはいえ、変わったように感じるのは輪郭だけで、芯はやはり大叔母だなあと、仕草や話し方の癖のなごりを見て思う。(そのうち、それすらも消えるだろうか。)
私が誰なのかを、彼女が判っているのかいないのかすらもはやわからないが、朧げに会話はできる。
(私が差し入れに持って行ったプリンの紙袋を指差し、それコロッケ?と何度も聞いてきた。コロッケちゃうくてごめん…。)
しかし以前にも増して、大叔母の言うことが聞き取れなくなっていた。「知らない惑星の言語みたいだなあ」なんて、のんきなことを思ったけれど、彼女は毎秒なにかを主張していた。
祖父、祖母、大叔母と、認知症の親戚はこれで3人目だ。私のことを忘れてしまった人とは、これまでの関係性がすべてなかったことになっているので、対面したときに何を言われるかわからない。こちらも、知らない人に会うような気持ちになってしまうので、緊張感がある。ものすごく身構える。傷つく覚悟をする。帰り道に、ふと人生の虚しさを感じて凹まないよう気をつける。
記憶をなくした人を目の当たりにするのはどっと疲れる。
ここ数年、同じ世界にいるのに、会えなくなってしまった人のことについてよく考える。
中身が変わってしまった人や生き物とどう対峙するか。目の前にいるのに、いない。では、目の前の人は誰なのか。あの人はどこへ行ったのか。私を眼差す瞳は何を見ているのか。たしかにあった時間はどこに行ってしまったのか。
車椅子に座る大叔母が、ふと、私の右手を掴むと、両手でそっとつつんで撫でた。
「きれいな、手。」と、目を見開いてはっきりと言った。(魔法が解けてすっかりおばあちゃんになった荒地の魔女がカルシファーを見て、「きれいな火だねえ。」とかなんとか言うシーンみたいだ。)
大叔母の手は白く、ひんやりと、しっとりとしていた。昨日触れた白百合の花弁に似ていたことを、忘れないように書いておく。
2025.12.24