マイ・ウェイ
8月が終わる。一年のうち、生者と死者の距離が、最も近く感じられる月。
先日は、父方の祖父の三回忌だった。祖父は飄々としていて、何を考えているのかよく分からない人だった。昔は職場で、「わがままがスーツ着て歩いてらあ。」なんて言われていたそうだ。祖父は嬉々としてこの話をしていた。私の中にわがままな部分があるとすれば、それは全てこの人ゆずりだろう。
祖父が亡くなったのは夏の終わりだった。だから、8月はとくべつ祖父のことを思う。
知らせを受け、祖父が一人で暮らす家に駆けつけた私は、家の裏の神社に走って行った。
「急なことで、祖父はまだ何も気づいていないかもしれない。どうかちゃんと気づけますように。どうか安らかに眠れますように。」と言いながら手を合わせたら、涙が込み上げた。自治会内で神社の管理係が回ってくるそうで、この年の担当は祖父だった。「俺が精算するんだから、お賽銭たくさん入れとけよ〜。」とふざけて笑っていた祖父を思い出して、いつもより多めにお賽銭を入れた。
その日は、祖父の家に方々から親族が集まって、葬儀の段取りなどの事務的なことを進めながらも、これまで通りくつろいでいた。祖父もきっとそこにいたと思う。いつもと違うことと言えば、音楽が流れていないことだった。
祖父は、いつもジャズのCDを流していた。ご近所さんから譲ってもらった犬には、「ジャズ」という名前をつけて可愛がっていた。
祖父は陽の当たる窓を背にした一人掛けのソファにどっかり腰掛けていて、私が遊びに行くと、ソファの横にある棚の一番上の引き出しからハーモニカを取り出した。そして、音楽に合わせて、とても上手にハーモニカを吹いた。ジャズは、それに呼応するように遠吠えをするのだった。
私はふたりのセッションを聴くのが大好きだった。窓から射し込む後光に照らされて、祖父の禿頭と、そこにわずかに残った銀色の髪、真っ白な犬の毛が、光り輝いていた。今思い返すと、奇跡のように美しい時間だったと思う。
祖父は晩年、戦時中の話をするようになった。当時小学生だった祖父は、空襲に遭って焼け野原になった大阪をひたすら歩いて生き抜いたという。疎開先に知り合いはいなかったけれど、ハーモニカを吹いたら、あっという間に人気者になったと話していた。
そのうち、家や土地の権利について書いた遺書がどこかにあるはずだという話になり、親族総出で大捜索が始まった。
私は、そんな親族たちを横目に、CDラックからジョン・コルトレーンのアルバムを引っ張り出して再生した。
そして、戸棚の引き出しを開けて、ハーモニカを見つけると、そっとポケットにしまった。
捜索をするうち、たくさんの手帳が出てきた。それは、祖父の十数年分のダイアリーだった。「きっとここに書いてあるはずだ!」と誰かが言った。
そこには、日々の約束や、好きな映画のタイトル、豆知識などが書き留められていた。どれも一言ずつで、感情の読み取れるような文章は見当たらず、さっぱりした祖父の性格が現れているようだった。
さらには、本当にしょうもない回文(「ビキニの下は私のニキビ」、「釧路よろしく」など。)がところどころに書いてあった。「オードリー春日 “チェイス”」と書いた後に、「オードリー春日 “つーす”」と修正した形跡も見つけた。オードリー春日の決め台詞、正しくは「トゥース」である。惜しい。
くだらなくて愛おしいメモたち。私はページをめくるたびにツッコまずにはいられなかった。
最後に会ったとき、祖父は、「そろそろ葬式で流す曲を決めなきゃな。」と言っていた。数年前から冗談混じりでこんなことを言っていたので、私は笑って受け流してしまい、結局、葬式で何を流してほしいのか聞けなかったことが一番の気掛かりだった。
それが、なんと、この手帳の中にちゃんと書いてあった。
“Ending song”と、やたら格好つけた筆記体の下には、9つの曲のタイトルと、それぞれの歌手名が書き留めてあった。その中には、1曲あたり10分ほどもあるクラシックも入っていたりして、私は、「一体何時間葬式やるつもりなんだよ。」と呟いて笑った。
祖父が長年手帳をつけていて、それをちゃんと保管していたことを、家族の誰も知らなかった。
手帳はもちろん、財布に挟まっていたレシートすらも、祖父がついさっきまでここで生きていたという証だった。私はそれらを引き取った。(そして、遺書らしい遺書は結局どこにもなかった。)
それから私は「Ending song」のミックス制作に精を出した。祖父のメモには、曲名だけでなく、ご丁寧に、「◯◯年バージョン」だとか、「◯◯編成の」といった指定までされていたので、私はちゃんとそのリクエスト通りに音源を探した。
歌謡曲、壮大なクラシック、小気味の良いジャズという、まったく一貫性のない曲たちをいい感じに繋いで葬儀ミックスを作ったこと、いつかまた会えたときには絶対褒めてほしい。
葬儀当日、お坊さんの読経が終わると、私はそのミックスを再生した。
霊柩車に棺が運び込まれる間は、フランク・シナトラの歌う「My Way」が流れていた。(律儀に曲目を書く割には、この曲は葬式ソングとして定番すぎる。)すると、ちょうど霊柩車の扉が閉まるタイミングで、ラストの壮大なサビに差し掛かった。シナトラが「マ〜〜〜イ ウェ〜〜〜イ」と絶唱し終えると同時にパタンと扉が閉められ、坊さんがお鈴を鳴らした。
私は、葬式DJとして完璧な仕事をしたのだった。
「Ending song」のラストナンバーは、ルイ・アームストロングによる「聖者の行進」だった。
「聖者の行進(When the Saints Go Marching In)」は、アメリカ合衆国での黒人の葬儀の際に演奏されていた曲だ。
サッチモ(ルイ・アームストロングの愛称)の出身地であるニューオーリンズでは、葬儀場から墓地までは葬送曲や賛美歌を厳かに演奏し、死者の埋葬が終わると、一転して明るく活気のあるジャズを演奏して踊りながら帰路につく風習(Jazz funeral)があったという。奴隷制度、辛い労働、人種差別。この世のあらゆる苦しみから、ようやく魂が解放される。死によって救われることを祝福する。これは、想像を絶する過酷な生涯を生き抜いた人々の霊歌なのだと思う。
8月の空はからりと晴れ渡っている。その下には、霊柩車を囲んだ喪服姿の私たち。強烈な青と黒。
そして、さらに強烈に陽気なこの曲が響き渡っている。
「最後のお別れです。ご一同、合掌ください。」というお坊さんの声に合わせ、私も合掌をして俯いた。すると視界に、隣に立つ父の足が入った。つま先が、ビートを刻んでいる。
ハッとして顔を上げると、父の両手は、合掌と見せかけてトランペットのような形を作っていて、3本の指を曲に合わせて動かしていた。父は、サッチモがトランペットを演奏する際のモノマネをしていたのだった。
一同が下を向いている中、指先を天に向けて体を揺らす父の姿に、私は声を上げて笑った。笑ったからなのか、涙が出た。
親族からの「なぜこいつは大笑いしているんだ」という視線を感じた私は、父を小突き、何食わぬ顔をした。
そして、霊柩車のクラクションの代わりに、サッチモのトランペットが高らかに、伸びやかに、青空を突き抜けるように鳴り響いた。式場の前を歩く通行人が、何事かと言わんばかりにこちらを向いていた。
霊柩車が発車する瞬間、父はでっかい声で祖父に向かって、「行ってらっしゃ〜い!」と叫んだ。
それがあまりに爽やかで、灼熱の太陽に晒されている私たちの間を風が吹き抜けるように感じた。私は呆気に取られつつ、涙が溢れた。
大学進学とともに上京して以来、東京で暮らした祖父が関西弁を話すことは一度もなかったけれど、やはり彼は生粋の関西人なのだと思った。最後の最後まで笑わせてもらった。
この世に辛くない別れはないと思う。祖父のことについて、後悔がないわけではない。けれど、こうしてちゃんと見送ることができたことに感謝しなくてはいけない。恵まれている。
それに、のこされた人間が先立った人のことを思うとき、どうしても笑えてしまうなんて、最高だと思う。
祖父について語るとき、私を含む親戚の誰もが、口角を上げずにはいられない。そんな祖父が心底羨ましい。私も祖父のように生きたい。
当時、祖父の遺品整理をしていたら、7年前に他界した祖母が使っていたカメラが出てきた。ページトップのぼんやりとした写真は、その中に入っていたフィルムを現像した際に上がってきたいくつかの写真のうちのひとつだ。この話もまた、どこかでできたら良いな。
今ごろ、祖父はジャズと一緒に散歩でもしているんだろう。
2026.8.31