「ー・・」展示後記 Ⅲ

お祖父様が伏龍特攻隊員だったという方(Kさん)が展示を訪ねてくださった。
そのときは連絡先を交換し、先日、改めて小田原の喫茶店でお会いした。
お祖父様は青木茂さんという。数年前に亡くなられたが、大往生だったそうだ。
Kさんは、祖父である青木さんに、戦争の記憶を書き残してほしいと頼み、亡くなる2年前に当時のことを手記として残してもらったという。
その手記や当時の肖像写真などを拝見しながら、詳しいお話を伺うことができた。

青木さんは海兵団に所属していたものの、戦中に胸膜炎を患い、別府市の海軍病院で一年以上、療養生活を送っていた。
「戦友が戦う中、自分は療養所にいて迷惑をかけた。自分に語れることは何もない」と、よく口にしていたとKさんは話した。
その負い目から、「特攻中の特攻だ」と思った伏龍に、青木さんは自ら志願したという。

横須賀に赴く前に書いたという青木さんの遺書を見せていただいた。まず、その美しい筆跡に驚いた。
青木さんは染物屋の次男として生まれ、幼い頃からのれん書きを手伝っていたこともあり、達筆だったそうだ。
(次男である自分だけでも食べていけるようにと考え、16歳5ヶ月という若さで海兵団に志願し、入隊している。)
上官の遺書や手紙を代筆することも多かったことから、青木さんは気に入られていたという。
ストレスのはけ口として、少年兵が上官から暴力を振るわれることが日常茶飯事だったといわれる海軍の中で、これは稀なことだと思う。
Kさんは、「祖父は世渡り上手だったんだと思います。」と言った。

三枚にわたる遺書には、「ふと暗い死の影が脳裏をかすめ、一抹の淡い寂寥感に襲われしも、時至らば応じ得る決心と覚悟……」と綴られており、胸が苦しくなった。
この遺書は、療養所で青木さんの隣のベッドで療養していた平さんという方に託されていた。一年以上を共に過ごした二人は、兄弟のような間柄だったという。
やがて平さんは海防艦の乗組員として出撃し、青木さんは伏龍の訓練のため横須賀へ向かった。
戦後、二人は互いの消息を探し続けたが、生まれ故郷と名前しか知らなかったため、なかなか辿り着くことはできなかった。
平さんは、青木さんの生死も分からぬまま、遺書を肉親に届けたい一心で、かつての友人を探し続けていた。
やがて、平さんが読売新聞の「尋ね人」欄に青木さんのことを寄稿したことをきっかけに、二人は再会を果たす。
その記事には、「この遺書を届けるまで、私の中で戦争は終わらない」と記されていた。

実に31年ぶりの再会だった。「遺書にならなかった遺書」は、青木さん本人の手元に戻った。
この再会を伝えた当時の新聞記事には、二人が固く抱き合いながら、「よく生きていたなあ」と言葉を交わしたと書かれていた。

この遺書を書いたとき、青木さんは24歳だった。今の私と同い年である。言葉が出なかった。
同じ年数を生きてきて、これほどの感情に触れたことはない。どれほど想像力を費やしても、想像しきることはできないのだと思う。
やはり当時の彼らの気持ちは、微塵も理解することができないのだと、改めて思い知らされた。

青木さんの手記は、「戦争はいかに人を不幸にするか。世界中から戦いを無くし、平和な地球であることを願うのみ。」という言葉で締められていた。
Kさんは、「祖父の字が綺麗だった、そういった個人の小さな物語が忘れ去られたときに、また戦争が起きる。まずは知ることから始めてほしい。」と話してくれた。

青木さんの戦争史も掲載されている本→『未来への遺言――いま戦争を語らなきゃいけない』著:前田浩智 砂間裕之 語り:保阪正康
ぜひ多くの方に読んでほしい。

2025.9.15